「感傷マゾ」とは、存在しなかった青春への祈りです。
※感傷マゾについて詳しく知りたい方は各々で調べてみてほしい。
彼らは、青春に敗れてしまい、「自分は青春ができなかった人間だ」という後悔や自己嫌悪を含む自己認識のもと、青春を彷彿とさせる”何か”を目の当たりにした時、そこに「存在しない青春」を描写してしまう。
それは虚しい空想であり、敗北宣言だともいえる。そして、我に返った時の情けなさや自己嫌悪は、人生を絶望するほどの破壊力になりえる。
しかし、その本来負の感情であるものを摂取し続けた結果、それが自分自身と完全に癒着し、感傷に浸ることに快感を覚えてしまうのである。
※本記事の内容的に、厳密には”感傷マゾ”というより”青春ヘラ”という類似概念の方が正しいかもしれないが今回はそのあたりは細かく細分化しない
青春ヘラについてはこちらを参考にしていただきたい
「青春ヘラ」とは何か?|ペシミ (note.com)
私は感傷マゾヒストである。いや、感傷マゾヒスト”であった”という方が正しいのかもしれない。
この概念に出会ったのはもう何年も前である。
幻想的な海、なんでもない神社、夕暮れの中の少年、いつからこれらに異様なほど引き込まれるようになったのだろう。いつの間にか、夏の原風景を貪るように、インターネットの海に溺れていった。
当時、新海誠や三秋縋などのどうしようもなく遣る瀬無い気持ちにさせてくれる作品をこよなく愛していた。
現実の中で救いを見つけられなかった私は、そのような作品の主人公が感じている喪失感や孤独をトレースし、自分に重ね、感傷に浸っていた。
自分と似たような感情を抱いている人がいるというだけでも少し救われる気がしたのだ。たとえそれが人工物であったとしても。
私の苦しみに効く薬はその感傷以外になかった。他は対処療法的な効果以上のものは望めなかった。
そんな中、感傷マゾという概念に出会った。
まさに自分と似たような考え方、嗜好であったことに驚きと喜びを感じた。世の中の人は皆、予定調和的なハッピーエンドを迎える作品が好きな人たちばかりに見えたから。
”青春”という言葉に誰もが一度は憧憬する。
それは呪いだ。友人がいない自分、恋人がいない自分、なにかに夢中になれない自分、、、
青春にそぐわないという理由だけで自分を否定し、自己嫌悪に陥る。
「いつかは自分も青春を味わえるはずだ」という何の根拠もない期待が、さらに事態を長期化させる。
”青春”は物心ついたばかりの頃に突然ひょいと渡され、しかも賞味期限付きであることも後に知らされた誰もが憧れてしまうラムネのようなものだ。
「周りの人たちはもう栓を抜き、青春にありつけている。でも自分はどうにも開けることができない。賞味期限が切れないうちに何とかしないと…」
この時感じた孤独、劣等感、自己嫌悪は苦しいものだ。しかし、”持たざる者(未開栓者)”として感じることができる、ある種特権のようなものでもある。
多くの感傷マゾヒスト達が感じる快感というのはこれだろう。
つまり、孤独や劣等感、自己嫌悪こそが、自分自身のアイデンティティであるということを実感しているのである。
悪い言い方をすると、どうしようもない自分に陶酔し、被害者ズラをしているのだ。青春を謳歌できなかったことによる、自己防衛反応ともいえるだろう。
それが子どもから大人への過渡期で起こってしまったがために、無個性な自分はそれに縋りついてしまう。
そうなってしまえば感傷マゾという沼から抜け出すことは困難である。
感傷を感じていることが生きている実感になってしまうからだ。
悲観的な印象を抱くかもしれない、しかし当事者の私としてはそれも悪くないな、と今は思います。
今回は概要説明のみになりましたが、感傷マゾについて書きたいことが多いのでまた関連する記事も書く予定です。
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