生きる意味について考えたことは誰しもあることかもしれない。
しかし当然のことだろうが、この疑問に対する受け止め方やその重さは人によってかなり個人差があるように感じる。
生きる意味を考えずにはいられない人とは
例えば、いままで大きな問題にぶつかることもなく、環境にも恵まれそれほど悩むことがなかった”幸せな人”
一方、物心ついたころから煩悶として、「生きることは辛いことに耐えること」だと感じて生きてきた”不幸な人”
この対照的な二者で、「生きる意味」について深く考えることになるのは恐らく”不幸な人”だと思う。
冒頭に書いた「生きる意味という疑問の重さの個人差」はその人の人生の苦痛に比例する、と私は思う。
なぜ「意味」を探してしまうのか
少し話がずれるが、あなたがおいしいご飯を食べているときや、大好きな家族と一緒にいる時、そのことに対して「意味」を探すだろうか?
多くの場合、答えは「No」だろう。
”楽しいこと”や”幸せなこと”、あるいは、”少なくとも苦痛ではないこと”に対して意味など必要ないのだ。
意味がなくとも「楽しいからしたい」だけで動機は十分で、それ以上の追究はない。
では、反対に”楽しくないこと”、”苦痛なこと”についてはどうだろう?
例えば仕事は多くの人にとってのそれに当てはまると思うが、これは”お金”という明確な意味がある。
もし”お金”という対価がなかったらきっとやりたくもない仕事をする人はほとんどいないだろう(いたとしてもすでに満たされている”幸せな人”だけだろう)。
ということは、”意味”が必要になるのは、”楽しくないこと”や”苦痛なこと”ということが言える。
このことから、「生きることが苦痛と感じれば感じるほど、その対価として人生に意味を持たせたくなる」といえる。しかしそれは多くの場合それを見つけることはできない。
その理由は、「生きる意味」とは自分自身で決めるものであるが(個人的な見解だが)、そういった人が求めてやまない「生きる意味」はもっと神聖な存在しない救済的な「何か」であるからことが多いからだ。
そして「人生の意味」を求めるという出口のない迷路を彷徨うという行為によってさらに心を消耗する。負の連鎖であるが、求めずにはいられないのだ。
「私はこんなに苦しい思いをしているのだから、きっとこの人生に意味があるはずだ」と思い、しかしそんなものが見つからなくてまた傷ついてしまう。
この心労はどうすれば報われるのだろうか?
後編へ続く
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