生きる意味について(後編)

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前回は感じている苦痛が大きければ大きいほど、生きる意味について考えてしまうということについて述べた。

見つからない「生きる意味」を求めてさらにつらい思いをしてしまい、どん底にいるように感じてしまう。この苦しみが報われるときは来るのだろうか?

「生きる意味」を求めるその先は

しかし、私はそれでも、苦境の中で生きる意味を求めることは悪いことばかりではないと思っている。

確かに、ただ幸せに生きたいならこんな疑問を持つことは重荷としては重過ぎるものである。しかし、求めずにはいられない分、苦境の中でしか「生きる意味」と真剣に向き合うことはできないとも言える。

「生きる意味」を切実に探し求めることは、確実にその人の人格や価値観を作り上げていく。そうすると、人生に対しての視野が広くなり、「人生とはこのようなもの」というイメージが見えてくる。

そして、いつか「人生には神様に与えられたような特別な意味などない」ということに直面し、さらにそれを受け入れられる時が来るのだと思う(すぐに受け入れられるかは個人差があるが)。

受け入れると「人生の意味は自分が決めるもの」ということも理解でき、今度は「何を生きる意味にしよう?」という考えに至るだろうが、それに関しては心配いらない。

その苦悩は報われる

ここからがこの記事の本題である。

前編にて、楽しくないことや苦痛なことほど意味(対価)が必要だと述べた。つらい人生であればあるほど、それに意味を持たせたがる。しかし、生きる意味は存在しないのでその気持ちのやり場はない。気持ちのはけ口がないので、心の中でそれは溜まっていく。

すると、その人の「心を救う何か」が現れた途端、そこへいままで燻ぶっていた「生きる意味を求める気持ち」が堰を切ったように流れ込み、縋るようにそれが「生きる意味」へと昇華されることがある。

例えば、、

”学校”とその”クラスメイト”が大嫌いな少年は、帰り道で懐いてくれたがその子にとっては「生きる意味」になるかもしれない。

家にもどこにも居場所がなく、誰も助けてくれないと思っている少女の唯一心安らぐの時間が一人で本を読んでいる時なら「本」が「生きる意味」だと感じるようになるのだ。たとえ、取るに足りないものであったとしても。

恵まれていて不自由のない一般的な人の価値観には「」も「」も当たり障りのないただの「風景の中の一部」だと思うかもしれない。しかし、その少年少女とって、それが苦境の中で見つけた唯一の光であるならば、それは紛れもない「生きる意味」になる。

どうしようもなくつらい人生にいる人にとって、世界のすべてははぼやけて見えるものである。本来大切なものでさえどうでもいいと感じてしまう。その代わり、そんな中で見つけた「救い」ははっきりと、どんなものよりも美しく見えるようになるのだ。

本当にその人にだけは、そんな風に見えるのである。

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